大判例

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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)1852号 判決

控訴人

日本共産党

右代表者

野坂参三

右訴訟代理人

上田誠吉

外一二名

被控訴人

株式会社産業経済新聞社

右代表者

鹿内信隆

右訴訟代理人

稲川龍雄

外七名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

(双方の申立)

一  控訴人は、「原判決を取消す。被控訴人は、その発行するサンケイ新聞、東京本社、大阪本社の朝刊各版通して、全七段抜きで、原判決別紙第二目録記載どおりの文章を一回掲載せよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、

二  被控訴人は、主文第一項同旨の判決を求めた。

(双方の主張)

双方の主張は、当審において次のとおり附加した他は、原判決事実摘示記載と同一である(但し、原判決七頁一〇行目「政府提案綱領」を「政府綱領提案」と、一八頁一一行目「数十万部以上」を「数十万部以上の発行部数」と、二四頁末行「倫論綱領」を「倫理綱領」と、三四頁一二行目「一九七三年」を「昭和四八年」と、同一三行目「七四年」を「同四九年」と、四九頁四、五行目「新聞紙法」を「旧新聞紙法」と、六二頁七行目「雑紙」を「雑誌」と、八〇頁二行目「反論掲載請求権」を「反論文掲載請求権」と、八五頁一〇行目「国民代表」を「国民の代表」と、八七頁四行目「闘争主段」を「闘争手段」と、九五頁九行目「党綱領提案」を「党綱領と政府綱領提案」と、それぞれ訂正する。)から、右記載をここに引用する。

控訴人は、次のとおり述べた。

一  憲法二一条に基づく主張について。

1  憲法第二一条第一項は、「……一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定する。この「保障する」の主語は日本国であつて、国が、享有主体である国民の自由を積極的に保障する趣旨を含意している。立法その他国家の行為によつて、自由を侵害することを禁止することはもとより、国民の表現の自由を侵害する行為があれば、たとえそれが私人の行為であつても、進んでその侵害を防止し、或は回復するという積極的保障の意味を含んでいる。もとより、私人間の法律関係は、私的自治に委ねられる部分が多いが、私的自治によつてはどうしても解決することができない基本権の侵害があつた場合には、国が、司法的救済を含む積極的保障を図ることを認めていると解される。この場合、同じ保障形式をとる憲法第二八条の団結権、団体行動権について、私人間の行為を直接に規律するという理解が一般的であることが参照されてよい。

2  新聞事業の巨大化は、やがて独占化に進み、巨大独占企業を支配する少数の人々に手による情報の収集伝達の恣意的支配の可能性があらわれる。新聞企業の巨大化は、情報の伝達者、送り手と読者、受け手とを分離、固定化し、少数者による言論支配を容易ならしめる虞れがある。新聞は、社会の公器から、少数者による世論誘導の道具の一つに転落する場合もあり得る。

このように、新聞の力が絶大であり、その信頼性が高まれば高まる程、誤つた報道、評論、広告によつて受ける人々の被害も大きく深刻となる。まして、意見広告の誤つた開放により、中傷誹謗広告が氾濫すれば、人々の受ける被害は、一層広範囲となり、一層深刻となる。

このような状況を踏まえれば、言論の自由、報道の自由と誤りのない報道、評論を目指す新聞自身の自律的、自主的努力に待つところが大きいとはいえ、国民の側からの新聞に対する民主的で適切な苦情と参加のシステムが、法的にも考慮されなければならない。名誉毀損の救済は、民主主義にとつて何物にも代えがたい健全な言論の機能の増進と裏腹の関係係に立つているので、金銭賠償の原則のみでは、新聞によつて被害を受けた人々の救済に不十分であるばかりか、現代マスコミの社会的政治的任務から見ても適切さを欠くことになる。一般に、アクセス権や反論権は、このようなマスコミの現代的状況の下に考案されているのであり、控訴人の反論権も亦このようなマスコミの現代的状況を踏まえて主張されているのである。

したがつて、控訴人が先に主張した①ないし⑧の諸要件(原判決四〇頁一四行目から四二頁三行目まで。以下、「八要件」という。)が存在すれば、反論の対象となるべき言論の違法性の有無、程度を問うことなく(当該の言論が名誉毀損を構成するか否かを間わない。)、反論権の成立を認めるべきである。

なお、八要件にさらに事情を附加すれば、被控訴人は、控訴人から、予め本件広告の掲載前に、自由民主党(以下自民党という。)出稿の意見広告については「社会の公器としての新聞の責任と良識に立つて、新聞広告倫理綱領、広告掲載基準等を厳守する立場から、自民党の意見広告に対し厳正な措置を執るよう」との文書及び口頭の申入れを受けたにもかかわらず、敢て本件広告を掲載したのである。

3  被控訴人の意見広告掲載の自由は、憲法第二一条の保障のもとにある。しかし、この自由は、国民の知る権利に奉仕するものである。マス・メディアが巨大化し、その社会的な影響力が巨大になればなる程、この巨大企業の享有する表現の自由が、その根本において、国民の知る権利に奉仕するものであることが見直されなければならない。

被控訴人には、国民の知る権利に奉仕するために、表現の自由が保障されているのである。そこで、被控訴人が、右表現の自由を行使するに際し、一方が他方を中傷的に攻撃する見解を提供するのみで、他方の立場を全く無視する等、国民の知る権利に奉仕すべき憲法上の義務を放棄したときは、国民の知る権利が優先して、憲法上一定の作為義務を課せられることがある。これが、被控訴人の負う本件反論文掲載の義務の根拠である。

4  被控訴人に反論文掲載の義務を認めることは、被控訴人に対して一定の広告スペースの無料提供を強制することになるが、この負担は、被控訴人にとつて、もつぱら営業活動にかかわることで、直接に表現の自由の制約にかかわるものではない。もとより、一定の広告スペースの提供は、その紙面の部分について、他の報道、評論、広告等の掲載ができないという限りで、被控訴人の享有する表現の自由と無関係ではないが、しかし被控訴人は、有料であれば本件反論の掲載に少しも異議を述べず、却つて本件広告掲載の直後、その有料掲載方の勧誘を試みたのであるから、もともと一定の広告スペースが本件反論文で埋められることに異存はなく、ただその広告料収入が得られないことに反対していたのであるから、所詮、本件反論文掲載によつて一定の広告スペースの無料提供を強いられることの不利益は、広告料収入という被控訴人の営業活動にかかわるものであることに変りはないのである。つまり、それは、被控訴人の財産権上の負担であつて、表現の自由に対する制約ではないから、被控訴人に前記義務を認めることを妨げる憲法上の制限はないのである。まして被控訴人は、出稿者たる自民党から、その契約上の権利に基づいて、のちにその負担分を徴収することができる立場にあるから、事実上の損害はないのであつて、表現の自由という、より優越的な憲法上の価値の前には、この程度の一時的負担は、許容されるものと考える。

5  要するに、控訴人は、被控訴人が、前記八要件のもとに、本件広告を先行的に掲載したことによつて、憲法第二一条に基づいて、反論文掲載を求める権利を得、これを主張する適格を得た。被控訴人は、同じく憲法第二一条に基づいて、攻撃を受けた控訴人の反論文を掲載し、これを広めて国民の知る権利を充足すべき義務を負担した。この権利と義務とを結び付けることによつて、憲法第二一条の保障を回復する接点は、控訴人が本訴で遂行している反論文掲載要求の権利主張そのものである。

二  条理に基づく主張について。

1  仮りに、憲法第二一条が直接に私人間に適用がなく、直接に私人間に権利義務を発生させることがないとしても、控訴人主張の事実関係のもとにおいては、憲法第二一条の保障と同旨を内容とする条理によつて、控訴人には反論文掲載を請求する権利があるというべきである。

2  法律を欠き、或は法律に規定がないからといつて、裁判所は、司法的救済を拒むことはできないのであつて、この場合に、条理によるべきことは論をまたい。その条理の中に、憲法上の基本的保障の内容が、具体的事実に即して取り入れられるべきことは、いうまでもない。

三  人格権に基づく主張について。

1  人格権に基づく妨害排除請求権として反論権が成立するためには、次の三つの要件が必要である。

第一に、新聞の報道、評論、広告などによつて、人格の同一性を害され、その内容、程度または態様が人格の尊厳の見地から、社会通念に照らして耐え難いと認められること。

第二に、新聞によつて人格の同一性を害された者から、その新聞に対して、前記のような同一性の侵害があつたことを記載し、かつ、節度を備えた反論文を提出してその掲載を請求すること。

第三に、その新聞による前記反論文掲載の拒否。

これらの要件が整えば、人格の同一性を害された者は新聞に対し、無料で反論文の掲載を請求し得る反論権を取得する。

2  ここで、人格の同一性という概念は、従来日本では認められていなかつた新しい法益、しかも名誉毀損の保護法益とは別の人格感情を基礎とする法益を示す。そして、人格の同一性を害する、というのは、自己の人格領域に属する重要な事柄について、新聞が虚偽もしくは不正確な事実を流布することによつて、新聞読者、一般公衆の中に人格像に関する誤つた認識が形成されることをいう。

このような場合に、反論権を発生せしめる法的根拠は、人格の尊厳を保護法益とする人格権であつて、人格の同一性の保持は、人格権の欠くことのできない内容をなす。

そして、この人格の同一性を含む人格権は、絶対権として、人格を害された者が、その侵害者に対し、侵害行為をやめるべきこと、また侵害の結果破壊された人格像の回復のための一定の措置を講ずべきことを要求することなどの具体的な請求権を派生させるものである。それは、あたかも所有権がその侵害者に対し、妨害排除請求権などの具体的な請求権を派生させるのと同じである。

3  さて、既述のとおり、本件広告は、明らかに控訴人を中傷するものであつて、控訴人の人格の同一性を甚しく害するものである。その内容、程度、態様において、人格の尊厳の見地から社会通念に照らして耐え難いものであつた。

控訴人は、本件広告の掲載後、被控訴人に対し、再三にわたり本件反論文と同旨の反論文の掲載を要求した。すなわち本件広告の掲載後である昭和四八年一二月五日、控訴人を代表して、訴外林百郎らが被控訴人を訪れ、反論の磯会を与えるよう申し入れ、その後同月一一日、一五日、二二日、二五日、二七日と六回にわたり、繰り返し同様の申し入れをした。とりわけ、同月一日の第三回の交渉の際には、本件反論文とおよそ同一の反論文(甲第七三号証)の掲載を求め、同月二七日の第六回交渉の際には、本件反論文とほとんど同一の反論文(甲第二六号論)の掲載を求めた。

被控訴人は、同月二七日最終的に右何れの反論文の掲載も拒否した。

したがつて、控訴人は、同日被控訴人に対し、控訴人主張の反論権を取得した。

4  控訴人が主張している八要件は、一般に反論権の成立要件をどのように解そうとも、これら八要件がととのえば、反論権の成立を認めざるを得まいという意味で述べたものである。

人格権に基づく妨害排除請求権による反論権成立の要件との関連でいえば、八要件は、前述した反論権の成立要件の第一に掲げた新聞による人格の同一性の侵害を示す具体的事実をできるだけ多面的に提出してみせたものである。

5  高度に発達した巨大なマス・メディアから人格の同一性について重大な攻撃を受けた者の最も有効な救済方法は、控訴人主張の反論権である。伝統的な名誉毀損による被害救済は、発達した今日のマス・メディアの現状に照らせば、実体的にも手続的にも十分ではない。

名誉毀損による救済は、当該の報道、評論などが違法かつ有責であると認められる場合に限つて是認される。何故かといえば、名誉毀損は、不法行為であつて、不法行為の成立には、行為に違法性と有責性が認められなければならないからである。そこでは、原判決のいう「違法なければ責任なし」の理論が、妥当する。

これに対し、人格権に基づく反論権は、新聞の側の故意、過失を問わず、その報道、評論、広告などの違法性をも問うものではない。事柄を外形的に見て、一定の場合に、攻撃を受けた者の側に反論の権利を認めるのである。そして新聞の側は、一定の場合に、たとえ適法な行為であつても、それによつて攻撃を受けた者から節度ある反論文の掲載要求があれば、その限度で反論文の掲載を甘受しなければならない。その場合に無料で反論文掲載の義務を負担するのは、その行為によつて人に損害を与えているからであつて、有責であるからではない。適法な権利行使であつても、人に損害を与えた場合に、その補償をなすべきことは、相隣関係の場合のように、我が実定法上にも明確な根拠がある。

6  控訴人は、原審において、「人格権と条理とに基づく反論文掲載請求権」というように、人格権と条理とを併記して主張した。しかしこれは、人格権によつて反論権の成立を根拠付けることができるとの意味である。条理を併記したのは、人格権そのもの及びそれから派生する妨害排除請求権などが、結局条理に由来するからに他ならない。

四  名誉毀損に基づく主張について。

原判決の「新聞の自由に基づく政党に対する論争・批判を掲載する自由と政党の名誉保護との調整」に関する説示(原判決一八二頁一三行目から一八四頁一四行目まで)は、一般には名誉毀損を構成すると考えられる意見広告であるから、これを掲載したプレスに損害回復の義務を負担させてよい場合であつても、政党批判を活発にするという大きな政治的社会的利益の前に、政党の名誉というより小さな人格的利益を屈服させ、プレスの名誉毀損を適法行為として承認するという思想であるが、かように「調整」などといいながら、政党の名誉の一方的後退を強いるにとどまることは許されない。

もし原判決のように、政党の名誉を小さな利益とし、プレス上の自由闊達な政党批判を大きな利益として、前者の後退を強いるのであれば、一面で、右の一般的には名誉毀損に該当する政党批判の意見広告をも適法行為として承認しつつ、他面で、これに対して提出された当該政党の反論文については、「損害賠償」として、反論広告掲載料をプレスに負担させて、政党の名誉に対して調節的救済を与えなければならない。かように、意見広告とくに全面的に開放された意見広告を用いてなされる政党攻撃のうち、一般的見地によれば、名誉毀損に該当するものについては、「適法行為による『不法行為』の理論」によつても、反論文掲載請求権を基礎付けることができる。

被控訴人は、控訴人の右各主張に対し、次のとおり述べた。

一  控訴人の憲法第二一条に基づく主張について。

1  控訴人は、憲法第二一条は、国が、司法的救済を含む積極的保障を図ることを認めている、と主張する。

しかし、憲法第二一条については、いわゆる間接適用説が判例、通説となつている。もし、「表現の自由」の保障規定について、控訴人の主張するように、私人間の関係に直接適用することを認めるとすれば、表現の自由に対し、国家の干渉、介入を積極的に許容することになるから、本来、「国家からの自由」としての伝統的な自由の観念と相容れないことは明らかであり、その意味からいつても到底肯認することができないのである。

確かに、憲法第二八条の団結権等の保障規定については、直接適用を認める判例、学説が有力であるが、これらの判例、学説といえども、一般には使用者による労働者の団結権等を不当に侵害する行為は、それ自体違法であり、損害賠償義務を生じさせるほか、法律行為の場合は、その効力を否定されるとする限度で、直接適用を認めるに過ぎない。したがつて、それ以上に、この規定から直接私法上の具体的請求権まで導き出すことには、非常な批判があるのであり、右の規定が抽象的であり、権利の成立要件や内容を具体的に規定していないことからいつて、消極的に解さざるをえないのである。このことは、団結権等と同じく社会権を保障している憲法第二五条については、一層強調されているところである。

仮りに、憲法第二一条について、直接適用を認めたとしても、「表現の自由」が自由権である限り、単に「国家からの自由」の内容が、私人間にも押し広げられるというに過ぎず、それによつて何ら権利の性格が変容するものではない。換言すれば、仮りに直接適用説に立つても、国家に対する関係で導き出しうる限度以上のものを、私人間で導き出すことはできない筈である。そうとすれば、控訴人が主張する「司法的救済を含む積極的保障」の趣旨は、必ずしも明らかでないが、妨害排除を本質とする自由としての「言論の自由」の観念そのものを転換させて、言論表現手段の供給要求を本質とするような新しい言論の自由の観念(乙第一四九号証参照)を主張しているものといわざるをえない。しかし、このようなアクセス権の観念は(反論文掲載請求権が、アクセス権の一環として主張される場合)、伝統的な「表現の自由」の観念に明らかに矛盾、牴触するものであり、控訴人の主張するマスコミの現代的諸状況を踏まえたとしても、軽々に認められるものではないのである。

2  控訴人は、新聞の独占・集中化の状況について述べ、マスコミの現代的状況のもとにおいては、反論権の成立が認められるべきであると主張するが、それは、結局、反論権の必要性があることの主張であるに過ぎず、いかに反論権の必要性が認められるからといつて、そこから反論権という権利が具体的請求権として導き出されるものでない以上、かかる権利が導き出されることを明らかにしない限り、無意味な主張である。

3  報道機関の「表現の自由」は、「国民の知る権利」に奉仕するという意味でその重要性が強調され、したがつてまた、報道機関がこれに奉仕する責務を有することについては否定するものではない。もとより、これは、あくまで社会的道義的責務としてのそれである。しかし、その責務を果たすために、報道機関の表現の自由が保障されているとするのは誤りである。そして、「国民の知る権利」に奉仕する責務が、本来社会的責務である以上、これからは何らの法的義務も導き出すことはできない。ましてや、裁判を通じて強制することができる具体的請求権を根拠付けるような「憲法上一定の作為義務」を導き出すことはできないのである。

4  控訴人は、被控訴人に反論文無料掲載の義務を認めることは、被控訴人の財産権上の負担にはなるが、表現の自由に対する制約ではないから、これを認めることを妨げる憲法上の制限はない、と主張する。しかし、それならば当事者双方は、何のために憲法第二一条を持ち出して相互にその主張を闘わせる必要があつたのであろうか。控訴人は、本件において、被控訴人の意見広告開放の方針を認めて、定められた手続に従つて本件反論文の掲載を求めているものではない。控訴人は、これによることをあくまでも拒否し、憲法第二一条に依拠するとして反論権なるものを振りかざし、被控訴人の「表現の自由」行使の手段であるサンケイ新聞紙上にいわゆる同一スペースの反論文を無料で掲載し、かつ、これを頒布するよう強制することを求めているために「表現の自由」の侵害として重大問題化しているのである。

5  控訴人がいかに八要件を繰り返し主張しても、それによつて何故に憲法第二一条に基づいて反論文掲載を求める権利を取得するに至るのかを説明し得ない限り、全く無意味な主張である。しかも控訴人は、「国民の知る権利」とこれに奉仕すべき報道機関たる被控訴人の責務の接点において、本件反論文請求権が導き出されるとするごとくであるが、右権利義務の当事者でもない控訴人が、これに横合いから介入し、どのようにして本件反論文掲載請求権を取得するに至るのであろうか。

二  控訴人の条理に基づく主張について。

控訴人は、憲法第二一条の保障と同旨を内容とする条理、と主張するが、同条は、私人相互の関係を直接規律することを予定しているものではないので、これを根拠として、控訴人主張のごとき請求権が生ずるいわれはない。また、条理が法源として問題となるのは、実定法、判例法、慣習法等が存在せず、しかもなおそのことを認めることが、法の理念として、いわば現行法秩序全体の趣旨から見て合理性のある場合のみに限られるべきものであるところ、本件は、この場合に当らないので、これを拠り所として、具体的請求権としての反論権を引き出そうとするのは、不可能というべきである。

三  控訴人の人格権に基づく主張について。

1  控訴人の主張は、西ドイツにおける州新聞紙法による反論権立法に関する学説、その中でも、人格権を主軸として反論文掲載請求権を理由付けようとする学説を重要な参考資料とするもののようであるが、右主張は、根拠のないものである。

2  西ドイツの州新聞紙法による反論文掲載請求権はいかなるものであろうか。

(一) 第二次大戦後の西ドイツ各州において立法された州新聞紙法第一一条(但し、バイエルン、ヘッセン、ベルリン三州の新聞紙法においては第一〇条)に規定されている反論文掲載請求権の根幹は、(1)新聞等の定期刊行物に(2)自己に関する事実(事実主張に限り、意見、批評等の価値判断は含まれない。)が掲載されたときは(3)その関係者は、当該定期刊行物の責任編集者及び発行人に対して(4)その掲載された事実に関する自己の反論(事実に限る。)の掲載を請求する私法上の請求権を有し(5)右の編集者または発行人から掲載を拒絶されたときは、その掲載を命ずる給付の裁判を求めることができること、以上(1)ないし(5)の他に、請求の方式、期間の遵守が適法である等形式的要件の満たされる限り、原則としてこの請求権は、成立し、これ以外に例えば反論の対象となる掲載の原文が名誉毀損または不法行為を構成することは、責任編集者または発行人に故意過失があること、原文の記事が真実に反すること、また関係者が反論として主張する事実が真実であること等は、何れもこの請求権の成立要件ではない、したがつて関係者が、自己に関する掲載記事を真実でないと主張する限り、責任編集者または発行者は、反論の事実が虚偽であることを確信していても、それは審理の対象とならず、原則として掲載義務を負担する(ただ、反論で主張する事実の虚偽であることが、一般に公知であるか、または裁判上公知である場合には、例外として掲載請求権は、成立しない。)。

バイエルン、ヘッセンの二州を除く各州においては、審理の手続は、民事訴訟法の仮処分手続の準用による。しかしそれに対する本案事件なるものは存在しない(但し、バイエルン、ヘッセンを除く。)。したがつて、本案を前提とする仮処分手続ではないのである(反論文掲載がなされてこの手続が終つたのちに、損害賠償請求の訴、名誉毀損の刑事訴訟等が起きても、反論掲載は、法律上、これらの訴訟手続を本案とする仮処分・仮の措置でないことは、いうまでもない。)。そして、掲載は、無料(但し、広告に対する反論の場合には、立法によつて異なる。)で、掲載のスペース、場所、活字の大きさ等も法定され、また反論として掲載すべき文章は、削除、付加が許されない。以上は、西ドイツ各州新聞紙法第一一条または第一〇条の反論文掲載請求権の規定上、極めて明らかである(乙第一一九ないし第一二九号証の各一、二参照)。

(二) 法律が、反論文掲載請求権の成立について、以上のごとく形式的要件の存在をもつて満足し、実質的審査を放棄した所以は、そもそも関係者の反論は、先行の掲載記事が読者に対し与える印象の新鮮な間に、できるだけ早くこれをなさしめなければ、その効果が薄く、もし実体的審査を要する建前にすれば、裁判の審理に多くの日時を要するからであるとされている。

3  右に概観した反論文掲載請求権は、各州の新聞紙法に認められた私法上の特別な制度であり、私法公法何れの領域においても、直接これに比較し得る制度は、存在しない。それにもかかわらず、ドイツの学説は、単にこれを新聞紙法上の特別な私法上の請求権として規定されたものと説明することに満足しないで、その立法理由及び法律上の性質の理由付けを試みており、しかもそれは、多岐にわたるのである。

すなわち、学説の一端を見るに、反論文掲載請求権の法理ないし立法理由としては、当事者双方聴取の原則ないし基本法第一〇三条第一項に規定する審問請求権の法理、武器平等の原則、当該関係人の保護、完全な報道についての一般人の持つ利益等々が挙げられている。そしてこれらが、人権または人格権の保護に多かれ少なかれつながる原則であるということができよう。その法律上の性質としては(立法理由と必ずしも正確に分別されることなく)、自由な表現の権利から流出した権利であるとか、一般的人格権から流出した権利であるとか、特別な新聞紙法上の請求権であるとか、損害賠償請求権であるとか、新聞の独占的地位に由来する契約強制の一つの場合であるとか、人格の同一性を主張する権利である等々、極めて多彩であり、多岐である。

4  しかし、この多岐、多彩にもかかわらず、これらの学説はすべて、立法がなくして反論文掲載請求権が存在するか、存在し得るかを論じているのではなく、この請求権が各州新聞紙法によつて立法されていることを前提とし、この前提の上に立つて、この請求権の立法理由、法律上の性質を論じているのである。それ故、かかる学説を引用して、立法の不要を根拠付ける理由となし、反論請求権は我が現行法体系においても現存し、立法を要しないでこれを認め得ると論ずることができないことは、明らかである。

5  人格の同一性を主張する権利に基づいて、反論文掲載請求権を理由付ける考え方自体も疑問である。

(一) 反論請求立法においては、この請求権の成立要件として、反論の対象となる記事の掲載が、不法行為となることも故意過失に因ることも必要ではなく、反論請求の裁判においては、先行の掲載記事とこれに対する反論のどちらが真実か、どちらが正しいかの確定は、その目的ではなく、もとより確定もされない。掲載された先行の記事が自己に関連を有し、請求権者が、主観的にそれを真実に反するとして、自己のなまの主張をし、それを反論として同一の新聞に掲載することを請求すれば足るのである。不法行為、故意過失、権利侵害、不真実等の存在も証明も要しない先行の掲載記事に対し、何故に、反論(それ自体もまた真実であることを証明することは、法律上要求されていない。)の掲載が許されるのか、人間の尊厳(レフラー)を理由とするだけでは、極めて不可解、不明確である。人間の尊厳を人格権或は人格の同一性を主張する権利(フブマン)とする学説に置き換えても―控訴人の主張は、まさにこの類に属する―結果的には、全く同一である。なお、この請求権は、権利侵害を要件としないから、一般的人格権の侵害からは生じないといわれている(フブマン)。

(二) 反論文掲載請求権の法律的性質を「人格の同一性を主張する権利」の保護に求める説は、次のようにいう。人間の人格は、生活の変化等にかかわらず常に同一の相を持つている。この故に人は、一般的人格権に基づいて、何人に対しても、世間において自己の人格像を変造しないこと、またすべて誤つた言葉、行為または生活関係が自己にすり変えられないことを要求することができなければならない、と。

しかし、(1)「人格の同一性を主張する権利」が、新聞の掲載記事によつて危険にさらされたとき、反論請求権が働くというのは、州新聞紙法第一一条の規定の文言との間の相違、矛盾は生じないであろうか。(2)「人格の同一性」という場合の「人格(像)」とは、反論権者自らが自己に対して抱いている人格の意味か、或は社会が自己に対して評価している人格の意味なのか、何れにしても一〇〇パーセント自己の人格に一致することなどは、極めて困難である。それが、われわれ共同社会の常ではないか。具体的にいかなる場合に、人格の同一性が危険にさらされたというのか。

四  控訴人の名誉毀損に基づく主張について。

控訴人は、原判決が、政党の政策や政治的姿勢に対する論争・批判が当該政党に対する名誉毀損を構成するか否かの判断の基準として、二つの基準を挙げたことを逆に捉え、本件意見広告は、あたかも「一般的見地によれば名誉毀損に該当するものである」と原判決が判示したごとくなし、かかる場合には、違法行為による「不法行為」の理論によつても、反論文掲載請求権を基礎付けることができると主張している。

しかし、原判決の判旨は、政党間の批判・論評は自由であり、むしろ他党からの批判には謙虚に耳を傾けるべきものであるとなし、それらの批判・論評が、名誉毀損を構成するか否かの判断については、特に慎重を要するとして、二つの基準を挙げたものであつて、本件意見広告が、一般的見地において名誉毀損に該当するなどと判断したものではないのである。よつて、控訴人の主張するごとき適法行為による不法行為の理論が適用されるいわれはなく、いわんやそれが反論文と結び付く理由もない。

また、適法行為による不法行為の理論においては、一面、その権利の存在、行使が許される適法なものであつて、他面、それによつて他人の権利を害し、損害を加えていることが前提条件であつて、これなくしては、損害賠償によつて救済を与える根拠はない。本件広告によつて、控訴人の政治的信頼、名誉が毀損され、または低下せしめられた事実はなく、かかる事実がない以上、右理論が準用される道理はないのである。

(証拠関係)〈省略〉

理由

一当裁判所も、控訴人の本訴請求は理由がないものと判断するが、その理由は、以下のとおり削除し、附加する他、原判決の理由中の説示と同一である(但し、原判決一〇七頁末行「同月二七日」を「昭和四八年一一月二七日」と、一二〇頁九行目「併行」を「並行」と、一二一頁一〇行目「デッドロックに陥り」を「暗礁に乗り上げ」と、一二二頁一二行目「併行」を「並行」と、一三五頁九行目「共産党殿」を「日本共産党殿」と、一四〇頁一四、一五行目「見究める」を「見極める」と、一五三頁一一行目「勧迎」を「歓迎」と、一五五頁七行目「亨受」を「享受」と、一五七頁四行目「亨有者」を「享有者」と、一八九頁一四行目「発し得ない」を「発表し得ない」と、一九二頁一〇行目「不真自面」を「不真面目」と、それぞれ訂正する。)から、右理由の記載をここに引用する。

二原判決の理由中、次の部分を削る。

1  原判決一五七頁一四行目から同一五九頁一行目まで。

2  同一六三頁一二行目から同一六四頁四行目まで。

3  同一六九頁一一行目の「なお本件乙号証」から同一七一頁四行目まで。

4  同一七四頁一行目から同一七六頁三行目まで。

5  同一七八頁一〇行目の「と名誉毀損」から同一一行目の「という点」まで。

6  同一九五頁一行目から同九行目まで。

三原判決一七二頁八行目の「崩壊しかねない。」の次に「控訴人は、人格権侵害に基づく差止請求権を主張し、いわゆる差止命令の中には、予防的差止命令及び禁止的差止命令の他に、命令的ないし強制的差止命令が含まれるものとし、本件においては、この中の強制的差止命令を求める意味において反論文掲載請求をしているとしても、控訴人のかかる請求を肯認することは困難である。我が実定法上、物権的請求権に基づいて妨害予防の請求及び妨害の停止・排除の請求が認められていること(民法第一九九条、第一九八条参照)、我が実定法上、差止請求権を認めた規定においても、右物権的請求権におけると同様、侵害行為の予防または停止の請求を許容するにとどまること(例えば不正競争防止法第一条、特許法第一〇〇条、商標法第三六条、実用新案法第二七条、意匠法第三七条、著作権法第一一二条)、右各法律においては、損害の回復に必要な措置については、別に規定を置いていることなどから考えると、人格権の侵害に対しては、不法行為に基づく金銭賠償・回復処分とは別に、人格権保護のために、人格権侵害の効果として、一定の要件のもとに被害者の救済が認められる場合があるとしても、その場合に請求することができる内容は、当該侵害行為について、防害予防の請求または妨害停止・排除の請求の範囲にとどまると解するのが相当であり、損害回復の処分として、右の範囲を越えて、相手方に何らかの行為を請求するがごときことは、実定法に明文がなく、法の解釈上または条理上も、これを許容する理由はないというべきであり、このことは、本訴請求にかかる反論文掲載請求についても同様である。」を加える。

四控訴人の前記一の主張について。

控訴人の右主張の骨子は、憲法第二一条は、私的自治によつて解決することができない基本権の侵害があつた場合、国が、司法的救済を含めて積極的救済を図ることを認めている、マスコミの現代的状況を踏まえれば、新聞に対する国民参加のシステムが法的に考慮されるべきで、八要件の存在するときは、反論権が成立する、被控訴人は、国民の知る権利に奉仕すべき憲法上の義務を放棄したから、国民の知る権利が優先して、一定の作為義務を課せられることがある、というにある。

思うに、憲法第二一条第一項は、表現の自由を保障しており、報道の自由の保障もこれに含まれる。保障するとは、公権力によつてこれらの自由を侵害することを禁止するという意味である。このように、同条項は、消極的自由権を規定したものである。報道の自由を、その報道を受け取る立場から見て、知る自由・知る権利ということがあるが、それは、報道の自由と表裏一体のものである。ただ、右と異なり、知る権利をもつて、報道が不完全であるとき一層完全な報道を求める具体的権利であるというならば、これに対応する新聞の具体的義務がある筈であるが、前述したように(原判決一五六頁八行目から同一一行目まで)、「国政上重要な事項については国民は知る権利を有しており、新聞は国民に知らせる権利を有しているであろうが、知らせる義務があるとまでは解されない。」(憲法第二一条が私人間において直接効力を有するものでないことは、ひばらく措いても。)。要するに、右のような権利義務を認めるに足る憲法上の規定はないのである。まして、国民が、新聞の情報、報道内容の形成に参加する権利が、憲法上現実的に存在するということはできない。

控訴人は、右のような新聞の情報、報道内容の形成に参加する国民の権利が認められてしかるべきマスコミの現代的状況を前提とし、その一環として、いわゆる反論権を主張するものと解されるが、右のような国民の権利を認めるべき憲法上の規定もなく、立法もない以上、右主張は、その前提を欠き、理由がない。また、控訴人は、被控訴人が、国民の知る権利に奉仕すべき憲法上の義務を放棄したことに、反論文掲載の義務を根拠付けて主張しているが、右のごとき憲法上の義務を認めることはできないから、右主張もまた失当である。以上の次第であるから、控訴人の主張は、何れも採用することができない。

五控訴人の前記二の主張について。

控訴人は、その主張する反論権が、憲法第二一条の保障と同旨を内容とする条理によつて認められる、と主張する。その趣旨は、控訴人は、憲法第二一条の保障の内容なすものとして前記主張の一のとおり主張しているが、かかる憲法第二一条の根底にある、同条と同旨を内容とする条理によれば、控訴人主張の反論権が認められるべきである、というものと解される。しかし、憲法第二一条に基づく控訴人の主張が採用することができないこと前述のとおりである以上、同条の根底にある条理なるものを推考しても、異なつた結論に到達することはできない筋合である。よつて、控訴人の右主張は、採用することができない。

六控訴人の前記三の主張について。

控訴人は、人格の尊厳から出発し、人格の同一性の保持は、人格権の欠くべからざる内容であるとなし、これを法律的基礎として、反論権の成立を主張する。しかし、右主張を概観するに、それは、人格の尊厳という普遍的な原論から出発し、したがつて法的保護に親しみ易い面を持つものではあるが、その要件を見るに、控訴人によれば、反論権の発生のために、名誉毀損がごとき不法行為の成立を要件とするものではなく、人格の同一性の侵害という他に例のない要件が説かれていて、我が国の既存の制度とかけ離れた性格のもののようである。この点、控訴人は、所有権に基づく妨害排除請求権或は相隣関係などの類推をいうが、反論文掲載請求権という内容を見れば分るとおり、これらの法律関係と控訴人主張の反論権との間には、法律効果の点において、なお大きな距りがあるのであつて、類推の域を越えているといわざるを得ない。かように見てくると、ここで主張されている反論権は、かなり特殊的技術的な色彩の濃いものであり、したがつて、特段の立法を待たないで、かかる権利の存在を認めることはできないといわざるを得ない。また、控訴人の主張する人格の同一性という概念は、その内容の分析はともかく、それはそれなりにその意味を理解することができないわけではないが、右概念自体、決して、我が国の判例、学説のうえで熟したものであるということはできず、控訴人自身も認めているように、むしろ新しい概念であり、したがつて、いまにわかにこの人格の同一性なる概念を採用し、これが侵害された場合に(他の要件を加えて)反論権が生ずるという法律効果を認めることは困難であるというべきである。外国に類似の制度があるからといつて、直ちに右の結論が左右されるものではない。なお、控訴人は、高度に発達した巨大なマス・メディアから人格の同一性に対し重大な攻撃を受けた者にとつて、反論権は、最も有効適切な救済方法であるというが、それがいかに緊要なものであつても、そのことから直ちに権利が生ずるものではない。前に見たように、控訴人主張の反論権は、従来の実定法上の制度とはかなり性格を異にする特殊な制度であるから、これを認めるには、法の解釈や条理によることは困難で、結局、立法論に帰着するものである。

七控訴人の前記四の主張について。

控訴人は、本判決において引用した原判決が、本件広告は一般的には名誉毀損を構成するとしながら、控訴人の名誉を小なる利益とし、より大きい利益と称する新聞紙上における政党批判を活発にするため、控訴人の名誉の方に一方的後退を強いているとなし、かような場合にこそ、被控訴人に反論広告掲載料を負担させて、両者の調整を図るべきである、と主張する。

しかし、右原判決が、本件広告につき名誉毀損の成立を認めたものではなく、またその際、控訴人の名誉の利益を小なりとして、これに一方的後退を強いたというごときものではないことは、原判文により明らかである。控訴人は、いわゆる適法行為による不法行為の理論を援用するが、本件広告は、控訴人の名誉を毀損したものとはいえないのであるから、前提を欠くものであつて、本件に不適切である。控訴人の右主張は、理由がないというべきである。

八右に説示したところによれば、控訴人の本訴請求は、理由がなく、これを棄却した原判決は相当であるから、本件控訴を棄却すべきものとし、控訴費用の負担につき、民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(杉田洋一 長久保武 加藤一隆)

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